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おいしいイモが食べたい

「えっ、イモ?何が沖縄と関係が深いの」と思った人もあるかと思います。知ってる人は知っている、知らない人は知らない、ということです。全国にサツマイモが普及したのは、もとはと言えば沖縄(当時は首里王府の時代)から本土に持ってたというのが事の初めです。そんなウチナーンチュにとっては当たり前の事実も、自分が知ったのは沖縄に来てからです。そこにはいろいろな「悲しい歴史」「屈辱の歴史」も見え隠れしています。でもここでは一応、そのことは置いといて、以下のような日記を紹介しておきます。

サツマイモ?

2005年3月26日


今回はイモの話。これで一応、今現在抱えてるネタは最後・・・。どうしよう

「サツマイモは薩摩藩=鹿児島県から広まった」のかな?でももともとは琉球から薩摩藩へ渡ったものというのはよく知られていることです。
でもここではもっと前の話、「どうやって琉球にやってきたのか」についてです。

「甘藷の文化誌」(比嘉武吉著、榕樹書林)を参考にしました。イモのルーツを探るところが謎解きっぽくて意外と面白かったです。ちなみに「甘藷=サツマイモ」です。


まずイモの起源はどこか?

「中米メキシコ地域における南太平洋インディアンによって、サツマイモは紀元前3000年以前に栽培されたと結論できる」そうだ。そんなに古い話なのか?でもどうやってメキシコと沖縄がつながるんだ??

・・・時代はそれからずっとさかのぼって「大航海時代」。イタリア生まれのコロンブスがスペインの援助で航海し、サンサルバドル島(コロンブスがはじめに上陸した中米の島らしい)というところでイモを“発見”したそうだ。これをヨーロッパに持ち帰ったのが、ヨーロッパのでのイモ初体験らしい。

この頃、いろんな人が航海して「地理上の発見」(この言い方、メチャメチャヨーロッパ中心な物言いだよね。だって「発見」前から普通にそこに住んでた人がいるんだから)が進む。アフリカ南端を通ってインド航路が「発見」されたり、マゼランが太平洋航路を通ってフィリピンにたどり着いたり。

いずれにしろ、イモは中南米からヨーロッパへ。沖縄に近づい・・・てないな?
でも今回はこれで終わりにしてしまいます。




イモ、海を渡る

3月27日


ところで何でイモかって?
イモはとても大切な食料だったんです。沖縄はもちろん世界各地で食料不足を解決するのに一役買った重要な作物なのです。
「だから?」。そう冷たく突き放さないでくださいよ~。


ヨーロッパに伝わったイモはその後どうやってアジアに伝播(でんぱ)したのか?

どうも諸説あるらしいです。まず著者はアフリカ南部の喜望峰周りの航路を否定し、マゼランの開拓した太平洋航路説をとります。
しかしヨーロッパ→マゼラン海峡(アルゼンチン南端)→(太平洋)→フィリピン、という航路は遠くてイモが腐る、といってます。そこで著者が出した結論は、

新大陸(メキシコ・アルカプルコ港)→(太平洋)→フィリピン、これしかない!とする。これだって意外と遠いから、イモが腐ると思うような気もするんだけど、とりあえずは著者の説に沿っておきます。

ところでイモは保存が利くからか、船上での重要な食料だったみたいです。遠路はるばるフィリピンまでやってきたときに、カビも生えず、芽も出ないでがんばったイモの精鋭たちが市場に並んだようです。

一方、この航路が成立する背景を書いておきます。
・1550年にメキシコのアルカプルコ港が開港したこと
・1571年、総督・レガスピがフィリピンを統一し総督府(今でいう首相官邸みたいなものかな?)をセブ島からルソン島のマニラへ移動

以上のような条件のもとで、マニラに商港が開かれ、しだいにアルカプルコ→マニラ間の貿易も拡大したということです。地名が?だと思います。地図帳を開いて場所を確認しましょう。

いずれにしろこのことは、「地理上の発見」頃から本格的にはじまった中南米、アジアの植民地化と密接に結びついているということです。

フー、やっとイモがアジアに入ってきた。だいぶ沖縄に近づいたと思いませんか?

沖縄も少しは暖かくなってきました。でもまだまだいつもの年に比べたら、財布の中と同じくらい寒い状況です。




むらさき色のイモ

3月29日


よく考えると、沖縄のイモは紫だね。イモといえば黄色が普通に思ってたので、今なお「?」です。おいしいかって聞かれると、なんとも・・・。黄色のホカホカしたやつのほうがおいしかったような気がします。この疑問は「甘藷の文化誌」では解けません、念のため。

「アルカプルコ港で航海食糧として積みこんできた甘藷は、マニラ着後なお残余があった場合にはマニラ交易市場に上場された。これを農民が購入栽培することになった。あるいは総督府において足しげく往来してきた多くの貿易船団の航海食糧を獲得するために、農民に積極的に甘藷栽培を普及していた感がする。」

「感がする」とはまたいいかげんな。
いずれにしろ、植民地下で統制栽培が行われていました。当然「持ち出し禁止」。
しかし、それを命がけで持ち出した、誰が?中国商人が。これで中国の農民が飢餓から救われたのだと。中国での甘藷の普及がいったいどれほどの影響力があったかは知りません。

中国のビンという国に持ち込まれたのが1594年。この甘藷を「堂々と琉球進貢船の帰船に乗せて導入を図った」のが野国総管、その人だった。これが1605年のことでした。


メキシコ→(太平洋)→フィリピン→中国(ビン)→琉球。ようやっとたどり着きました。長い旅路、ごくろうさまでした。フー疲れた。これから先のことを知りたい人は・・・自分でお調べください。

現在、野国総管の像が嘉手納町の58号線の傍に立ってます。嘉手納町(昔は北谷村)は昔はあたり一面畑が広がってたと思われます。でも今現在は、その目線の先に広がるのは嘉手納基地です。野国総管はいったいそこで何を考えているのでしょうね。

以上、イモ編、終了です。






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